インスタにちらほらと金木犀が載る季節になった。載る時代になってしまった。
金木犀の匂いに想いを馳せるのは自由だと思うが、金木犀に想いを馳せる自分に想いを馳せているようにしか見えない。先人達がそうしてきた事の模倣にしか見えない。同一化を図って気持ちよくなろうとしてるようにしか見えない。
要は気に食わない。
流石に弄れ過ぎだと思うがこれは親譲り。
同じように、流行りものも気に食わない。
『ほとんどの人々は他の人々である。
彼らの思考は誰かの意見、彼らの人生は模倣、そして彼らの情熱は引用である。』
という、オスカーワイルドの名言がある。
『男は女の最初の恋人になりたがるが、女は男の最後の恋人になりたがる。』
という、きっと聞いたことのあるフレーズを言ったのも彼だ。
巷での流行るようなものは大衆の意見に寄り添うようなものだから流行るのだろう。それはそれでいいだろう。
流行りものを生み出す人々に情熱はあるのだろうか。なんにでも値段を付けたがるこの消費社会にそれは無いと思う。
流行りものは結局誰かの、何かの模倣でしかありえないと思う。そしてそれを取り込み模倣する人々。
情熱があるかも疑わしい誰かさんの模倣を模倣し同一化を図る人々。
自分はそこに魅力を感じられないし、そうする人々にも魅力を感じない。
流行りものを積極的に消費しようとする人々を素直な眼差しで見ることができない。
金木犀の話に限らないが、誰かにアピールするためのツールとしか思えない。
もっと人の想いが見たい。他者からの目を排除したその人自身の想いが見たい。
アイドルの歌より路上シンガーの歌を聞いていたいし、有難いお説法より酔っ払いの駄弁を聴いていたい。
率直で飾らない、醜くても、その人自身が捻り出した人間くさいものが見たい。
ぺちぺちとインスタに自分を良く見せる投稿をするならブログとかで独白をしろよと言いたい。そう俺のように!!
こんなことを思いながらインスタをみていると、アピール満点のそういう投稿は逆に人間くさいなぁとも思う。嫌いに変わりないが。
そんな自分はと言うと、人とは違うとアピールしたい中学生男子の精神から成長がない。
この独白も模倣でしかない。弄れすぎ。
流行りものが嫌いな男の逆張りでしかない。