『自分の気持ちとか他人事みたいに話すよね。』
昔からちょこちょこ言われていたが、久しぶりに再開した人に言われて少し自分なりに考えた。
結論から述べると、言語化が比較的得意であるが故に感受性や心が鈍くなっているのが原因だと考えられる。
以下駄文。
言語化には限界がある。
五感を使ってインプットされた情報は言語化することによって本来のテイストの多くを失う。
体感7割程度が失われる。
残り3割。
しかしそれが全て相手に伝わる訳では無い。
良くてその1割くらいと思う。
全体の3%程度。
これが自分の心や気持ち、感情の話になると3%程度だと真意など伝わるはずがない。
言語化に意味はあるのだろうか。
7割も伝えられていないなら嘘じゃないか。
お前が本当に感じていたことはそんな事なのか?
その程度なのか?
言語化が上手いということは感じた7割を切り捨ててそれらしく繕っているだけだ。あるいは大して心で情報を受け取っていないだけだ。
言語化が苦手ということは心で感じた情報が多すぎて取捨選択ができないだけだ。随分豊かだ。
全てエモいで済ませるのは頭が悪いと思うが、余計な言葉で修飾も削除もしない素直で良い表現だとも思う。
感情に関する語彙が増えるほど脳内で言語化することによって理屈で片付けてしまうので反射的な反応をしにくくなる。
結果、感受性が、心が鈍くなる。
自分の場合は、言語化によって失われる情報量への失望と諦めがあるので気持ちの話をしなくなり、心が鈍くなり、さらに気持ちの話をしなくなり……というループなのだろう。多分。
どれもこれも高校時代のメンヘラ女にメンヘラを伝染されたせいだ。メンヘラは伝播する。
映画や音楽が好きな理由は没入させることによって理屈の介入する余地を与えないから。
理屈より感受性が優先されるから人の心があることを実感できる。
とはいえ映画のレビューを書くという理屈で良さを普及する行為は好きだ。
感動を上手い形で遺せたときの快感はえも言われないものがある。
映画の話は置いておいて。
諸々書いたが、書きながらこの記事自体が言語化であることに変わりなく、3%も伝わらないのであれば書く意味が無いのではと感じた。
ただ、感情が鈍くて言語化もしないなら人である意味があまりないと思うので、人であるための営みとして自分を納得させながら書ききった。
恋人たちが毎日のようにLINEする行為は情報量少ないから意味が無いと言ったら、人をデータソースとして認識すんならお前人である意味無くね?って言われたのもある。AIに代替されてしまう。
ぐだぐだ駄文を書くのは実に人間らしいでしょう。